大学院博士課程終了後は法政大学工学部経営工学科に奉職、42年間、70歳まで研究・教育生活を送った。専門はOperations
Researchとシステム工学。2011年定年退職、名誉教授。ゼミの卒業生は526人になった。
40代の頃、南青山のLamp LightでDolly
Bakerに出会い、ジャズボーカルの何であるかを学んだ。ドリーからはいろいろなことを教わり、いろいろな本や資料、譜面、写真など珍しいものをもらった。お袋のようにしてくれた。しばらく後に沢田靖司と無二の友となる。ドリーに紹介してもらったのだった。この時代にクルーニング唱法を身につけた。ベルカントとは正反対の発声法で何とかジャズらしく歌えるようになるのに3年かかった。
この時代はソロ・ボーカルが中心だったが、元サーカスの島田トオルと三菱商事の有名人、佐藤 宏さんと3人でコーラスもやった。今はないテレ朝通りの夜更けのSound
Inn DOMINANTが遊び場だった。
50代半ばになってLight Music Society出身の寺田兄さん、白石兄さんに連れられて赤坂のLittle
MANUELAに行くようになった。そこで、出会ったブルーコーツの小島正雄さんの長男、小島 恂に誘われてジャズ・コーラスを再開した。これがOZ
SONSの始まりだった。
1999年にスリー・グレイセスのコンサートに引っ張り出されたのがきっかけとなり、2000年代はいろいろな人やいろいろなところから呼ばれた。鈴木史子のKeep
Shiningは2001年から常連メンバー、2002年、社会人ビッグバンド都連のコンサートに、OZ SONSがジャズコーラスとして初めて呼ばれた。
2003年、最後の「ゲソの気まぐれコンサート」にゲストで出た。ゲソG+3グレイセス+OZ
SONSの8人コーラスは圧巻だった。5月連休の前日にコンサートがあったのだが、ゲソGはその年の9月に他界した。
2004年の2月には、われわれを可愛がってくれた世良Gがガンで亡くなった。自分のライブにオジサンたちを呼んで素人コーラスの伴奏までしてくれたのだ。追悼コンサートでわれわれOZ
SONSは世良Gにささげて”Mr. Wonderful”を歌った。
大橋巨泉とサラブレッズのドラムス、日本楽友会の理事長、池貝政俊さんはミュージシャンの集まりで私を紹介するとき「この人は趣味で大学教授をしている若山さん」と言います。
2013年6月に、最初で最後の自主コンサートを草月ホールで開催した。約500枚刷ったチケットはSold
Outとなった。中尾ミエに生前葬だと言われた。
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